Back to NUMAZU #5(9/27)

沼津で感じた、

意外な国との深いつながり

plumroom-0417.hatenablog.com

↑前回の記事

前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、今回もまた旅行記です。大学の卒業論文の執筆スケジュールを見つつ、その合間を縫って、このブログもぼちぼち動かしていきたいと思います。

そういえば、大ヒットしているという劇場版「鬼滅の刃」を観てきました。流行りものがどんなものかと思って、何もわからない状態で観に行ったものの、いい話だなと思えるものでした。

言いたいことがガッツリ伝わってくる映画だったというのがまず第一。「清く正しくあることの大切さ」というか、「正義とは何か?」「真に『強いこと』とは何か?」というようなことを伝えんとしている映画なのでしょう。

「鬼に家族を惨殺され、唯一生き残った妹も鬼になってしまったため、妹を人間に戻す方法を求めて修行をし、鬼殺隊へと入り、鬼退治をする」というのが、当作品の大雑把な内容でしょうか。「鬼が出たためにかつての平和な暮らしが奪われてしまった。」→「自分の力でどうにかそんな状況を打破したい」というようなところが、コロナ禍の真っただ中にある今日の日本において、老若男女問わず共感を集め、そして支持されているともいえるのかなと思いました。

本題に戻り旅行記です。

 戸田の町のはずれにある御浜岬です。

f:id:plum_0417:20201114180219j:image
f:id:plum_0417:20201114180213j:image

この近くに資料館と水族館があるということで、立ち寄ってみました。「沼津市戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館」です。

numazukanko.jp

www.city.numazu.shizuoka.jp

1969年に、当時の旧戸田村によって建設された資料館で、古墳からの出土品や造船に関する資料、戸田とロシアとの交流の他、深海生物に関する各種資料を見ることができます。

ロシアとの交流とは、あまりピンとこない人もいるかもしれませんが、ここ戸田は幕末より、ロシアとの交流があります。

江戸時代の初期、江戸幕府3代将軍徳川家光*1のころから鎖国を続けてきた日本にも、18世紀末ごろから徐々に外国船が到来し始め、19世紀の中ごろになると、欧米諸国の軍関係者などがたびたび日本を訪れ、幕府に対して開国を要求し始めます。当初は法令によって片っ端から打ち払う方針を示していた幕府も、隣国である清(中国)がアヘン戦争で負け、イギリスに不平等条約を結ばされたころより、その情勢を見計らって、漂着した船には燃料や食料などを与えるという方針に転換しました。しかしその後も幕府は鎖国の方針を崩さず、オランダ国王による開国の勧告やアメリカからの通商の要求などもすべて拒絶します。

その状況が一変したのが、かの有名なペリーの来航です。1853年6月、東インド艦隊の司令長官だったペリーは、「黒船」を4隻率いて浦賀沖に来航します。ペリーは幕府に対し、当時のフィルモア大統領の国書を提出し、日本の開国を要求しますが、幕府は回答を翌年に約束したうえで日本を去らせました。翌年、ペリーは7席の艦隊を率いて来日し、「日米和親条約*2」を締結しました。

時を同じくして日本に来たのがロシアです。ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン(1804~83)は、1853年に長崎へ来航し、国境の画定と開国を求めました。プチャーチンは翌年再び来航し、下田で「日露和親条約*3」を締結しました。

条約締結に伴い下田に滞在していたプチャーチンですが、滞在中11月4日の朝に発生した安政東海地震による津波で艦船「ディアナ号」が大きく損傷してしまいます。修繕に際して、当時のロシアがクリミア戦争でイギリス・フランスと戦っていたことを踏まえ、御浜岬に囲まれ敵国に見つかりにくいと見た戸田を修繕場所に選び、下田から戸田へ回航することにしました。しかし、回航の途中で強風にあおられ、戸田を過ぎて田子の浦沖まで流されてしまい、ついには沈没してしまいます。なんとか陸地へと戻ったプチャーチンと500名ほどの乗組員は、沼津などを通りつつ2日かけて戸田へとたどり着きます。

「ディアナ号」の船内から持ち出した帆船の設計図をもとに代替船の設計に着手します。ロシア人の技術者と日本人の船大工により設計・建造されましたが、言葉や長さの単位が違うなど、相当な苦労があったようです。当時の日本にはロシア語の通訳がいなかったため、オランダ語を介して2つの言語を訳し、コミュニケーションを図ったそうです。*4かくして約100日を要して完成した帆船には「ヘダ号」と名付けられ、1855年3月22日に戸田を出港。約7か月後の11月に、当時の首都サンクトペテルブルクに到着しました。

「ヘダ号」は日本初の本格的な洋式帆船でした。「ヘダ号」の建造後、幕府の命により同型の帆船が戸田で6隻建造されました。当時戸田村は君沢郡に属していたことから、同型の帆船を「君沢型」と呼びました。その後、君沢型の帆船は江戸の石川島でも4隻建造されましたが、そこにも戸田から船大工が派遣されています。その他にも戸田の船大工は各地に招かれ、西洋式の帆船技術の普及に務めていきました。

プチャーチンの没後、1887年に、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチンが戸田を訪問。関係者に記念品を贈ったほか、造船所の跡地などを見学したそうです。また、オリガの死去に際し、遺言により100ルーブル(当時)が戸田村に寄付されました。

プチャーチンの来航から100年以上経った1969年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設する際、戸田村は当時のソビエト連邦の政府から500万円の寄付を受けました。また、翌年には、大阪万博ソ連館で展示されていた「ディアナ号」の模型とステンドグラスが閉会後に戸田村へと贈られました。その模型は現在でも博物館に展示されています。

造船資料室には、当時の様子を伝える資料の他、ディアナ号で使われていた物品などが展示されています。これから開国しようとする時代における、沼津や戸田の人々から見たロシアの軍人の様子や、ディアナ号の船内における生活の様子などをうかがい知ることができます。

www.city.numazu.shizuoka.jp ←出典

続いて深海生物館です。戸田のトロール船から水揚げされた深海魚を標本にして展示しています。オロシザメやソコボウズなど貴重な深海魚をはじめとした、182体の標本やはく製と、42体の模型が展示されています。

また、お笑いコンビ「ココリコ」の田中直樹さんが、ここ深海生物館の名誉館長を務めており、2017年のリニューアルに際しては、田中さんなどによる監修で「楽しく学べる施設」となったそうです。

www.city.numazu.shizuoka.jp ←出典

郷土資料室では、主に戸田の漁業について見学することができます。古くからイワシやカツオの漁がおこなわれており、明治になって動力付きの船が登場すると、伊豆諸島近海にも進出。さらに、戦後には漁船が大型化し、南太平洋やインド洋における遠洋漁業にシフトしていきました。

しかし、1965年にマリアナ諸島で戸田漁協のカツオ漁船3隻が台風に巻き込まれて沈没し、74名の漁師が死亡・行方不明になる事故が発生。さらに1977年には排他的経済水域(200海里経済水域)が設定され、遠洋漁業は衰退を余儀なくされます。

戸田の漁業は、今日では近海でのものが主となっており、カツオ・イワシ・サバを対象とした旋網漁やタカアシガニや深海魚を対象とした底曳網漁、イセエビやサザエなどを対象とした刺し網漁がおこなわれています。

郷土資料室には、漁具や船の部品などが展示されています。展示物品により、時代に合わせて変遷していった戸田の漁業について知ることができる施設です。

なお、こちらの資料館は「館内撮影禁止」とのことであったため、館内の写真が手元になく、載せることができません。ご了承ください。

長井崎中学校や総合案内所に寄りつつ沼津港方面を目指します。どちらも今年1月以来です。

二日目のランチはオーソドックスに丸勘で済ませました。大体1000円以内で満足できるコスパの良さは沼津市内では一番でしょう。サーモン丼の大盛りでご飯を酢飯に変更しましたが、それでも700円でした。

腹ごしらえを済ませて、次の目的地へ。

かれこれ2か月近くたちますが、次で終わらせます。今回もお読みいただきありがとうございました。

*1:1604~51、在職1623~51。法制・職制・兵制・参勤制などの江戸幕府統治機構を確立させた3代将軍。キリシタン(=キリスト教徒)の禁圧や鎖国政策などにも取り組んだ。

*2:下田と箱館(函館)の2項の開港と領事の滞在を認めさせるなど、日本とアメリカの間に国交を結ばせ、日本を開国させた条約

*3:下田・箱館・長崎の開港と国境の策定(択捉島以南を日本領。得撫島以北をロシア領とする)、樺太を「両国人雑居の地」とした条約

*4:鎖国体制においてもオランダとは長崎の出島で交易を行っていたこともあり、オランダ語の通訳は日本にもいた。